音楽祭実行委員日記

NAGANO国際音楽祭実行委員会のよもやま話を紹介します。親しみを持って頂けたら幸いです。

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NPO法人 NAGANO音楽教育支援センターでは、NAGANO国際音楽祭などの事業を通じて、一流奏者を招聘しての楽器講習会や演奏会開催のほかに、ピアノの無料貸し出しという形でも、教育支援を行っております。
経済的事情でお子様に楽器の用意が難しい方、年頃のお子様に何か楽器の習い事をさせたいけれど、最初から楽器を購入するには、お子様が続けるかわからないので、お試ししたい方・・などにお役立ていただけたらという趣旨からです。
主にYAMAHAのグランドピアノとアップライトの貸し出しを行っています。
貸し出し期間 2年
楽器貸し料は無料ですが、楽器の運び込みと運び出し、
またピアノ調律料で専門業者への支払いは実費ご負担ください。
貸し出し条件 ピアノの使用や管理は誠意をもって行い、年一回以上調律を行うこと。

お問い合わせはこちらへお願いいたします。
http://www.nkos.jp/suport.html

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2009年8月6日の「スポンサー様と感動秘話その1」に続いてやっと「その2」です。

音楽祭の協賛金のお願いでB社に伺ったのもA社と同じ2007年でした。
B社は世界的に有名な、少なくとも日本人ならどなたでも知っているメーカーから経営陣がきています。
でも、生粋の上田発祥の会社です。
B社は創業以来社会貢献活動としては、自社製品(何百万円もするものです)を、本社、支社、工場がある市町村の社会福祉協議会に定期的に寄付されているのですが、文化活動に対しては無縁だったということです。
つまり初メセナで私どもにご支援いただけたということで、言葉では言い表せないほど光栄至極にぞんじます!

NAGANO国際音楽祭は小さいながらも演奏や講師としておいでいただいている音楽家は、有名無名にかかわらず世界トップレベルであり、受講生の受講後の活躍がそれを裏付けております。
ですから上田市という一地方都市から世界に通用するものを送り出していると意味において、B社と私どもの音楽祭は同じではないかと・・・?
B社は上田市の誰もが知っている有名企業で、製品は世界の津々浦々で使われているもの、しかし私どもの音楽祭は上田市民でもご存知ないという無名な音楽祭という大きな違いはありますが・・。

ご支援いただけるようになってから毎年音楽祭期間中に企業訪問コンサートをさせていただいております。
選抜の講師も受講生もレッスンを抜け出して、演奏が終わったら夜の講義に間に合うように合宿所のホテルに戻る、あわただしい中での演奏会ですが、演奏者は真剣勝負です。お客様は終業後のお疲れのところ、支社や工場から演奏会場である本社の大きな会議室にお集まりいただくのですが、お客様も真剣にお聴きいただき演奏家冥利につきます。

2008年後半から始まった急激な経済の落ち込みで、2008年のB社の中間期決算の数字や不況のニュースを聞くにつけ、今年の音楽祭へのご支援は無理だろうなと半ばあきらめておりましたが、担当の方から今年のご支援のご連絡を頂いたときは飛び上がってしまいました。
役員の方には終演後楽屋にお見舞いいただき、演奏した受講生に「今後も支援を続けますので、うんと有名になってくださいね。
そして将来テレビなどでみかけた折、『あの演奏家は学生のときにわが社に来て演奏したんだよ』とまわりに話ができるようにね。」とにこやかに励ましの言葉を頂戴いたしました。

最終日のフェスティヴァルコンサートには、社長夫妻にもご高聴いただき、お運びいただけること存知あげませんでしたので、かなりびっくりしましたがB社と距離が少し狭まった気がいたしまして、とても嬉しいことでした。

B社様本当にありがとうございます。
レオナルド・デカプリオを一躍スターにした映画「タイタニック」で印象的だったのは、客船が沈没を始めパニック状態になった乗客が少しでも平静を保てるようにと演奏をした音楽家の実話に基づいたシーン。いよいよ船が傾き演奏を続けるのが無理となったとき、最後の演奏を終え、コンマスが「今夜、君たちとともに演奏できたことを誇りに思うよ」と言ったシーンで涙した方も多かったと思います。パニックしていた乗客の耳に音楽が届いたかはわかりませんが、観念し静かにその時を待つことを選んだ乗客の心には彼らの演奏がしみ渡ったことでしょう。
8人の音楽家全員亡くなり、コンマスの遺体がみつかった時、彼は自分のヴァイオリンを固く抱きしめていたそうです。
先日第二次世界大戦末期から戦後にかけてシベリアに抑留されていた方の体験記を読ませていただく機会がありました。
その方は85歳を越えていらっしゃいまして、戦争体験を後世に伝えなければとエッセイにしたため、自費出版したものです。
筆者は衛生兵で、厳寒環境下で食事や休養もろくに与えられずに、過酷な労働を強いられたことにより、抑留者の命が次々に失われていった様子を克明に記しています。
抑留者の生きる望みはただひとつ。日本に帰国できること。
毎晩眠るときには日本に帰ったら何を食べたいと話しながら眠りにつくのだそうですが、翌朝そんな話をしていた仲間が冷たくなっている。
しらみは死人からは離れて生きている人間に移動するので、その痒さも大変なものだったそうです。
厳寒の地では飲み水も凍ってしまいます。いよいよ死に目が近づいた人が水を欲しがるので、おしっこで水を溶かしてやり、それでもいいかと聞くと、いいというので、それを飲ませてやり、死に水としたことも。
脱獄すると必ず射殺されるのをわかっているのに、収容所で精神的におかしくなり、飛び出して行って殺されてしまう者、自殺してしまう者が後を絶たず、衛生兵として筆者はなんとかしなければならないと考えます。
そこで発案したのがなんと劇団を作ること。
昼は過酷な労働、合間に衛生兵としての看護や治療があり、へとへとなからだで、夜のわずかな時間を利用して芝居の練習をし、劇を上演しました。
そうしたら、脱獄する人も、自殺者もいなくなったということです。そして、次の演目は何かと楽しみにしてくれる声がかかるようになったと。
筆者いわく現代でも十分通用する質の高い芝居だったといっています。
あの環境で劇団を設立したというのも驚きです。
そして、芸術の持つ力を思い知らされた抑留記でした。
芸術文化はなんとなんと素晴らしいのでしょう。
事務局の庭の塀にからまる蔦は、紅と黄色の葉っぱを陽に輝かせて、晩秋の気配を深めています。
11月2日の夜から3日の朝にかけて、山沿いには降雪がありました。
今年の冬はかなり気が早いようです。

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